◎大道を体解(たいげ)して無上意を起こさん。「お蔭がありますよ、もう不思議なお蔭頂きますよ」とゆう様な間は、堂々としてお道の信心を語る事も、又自分自身の心の上にも、いわゆる無上意とゆう事になってこない。最高の道を教えていただいているとゆう事が有り難いと、無上の喜びを感じさせて貰うところに迷うこともないし、恥じらうこともない。%V
%1お参りをさせまいという働きについて
%2伊万里市長立候補について
%3親先生のご祈念。
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昭和43年06月20日 朝の御理解



 御理解第97節
 「神を拝む者は、拍手して 神前に向かうてからは 仮え槍先で突かれても後へ振り向く事はならぬぞ、物音や物声を聞く様では、神に一心は届かぬ。」

 真の道乃心得の御教えの、その御教のどの一箇条も、あだやおろそかに出来ない御教ばかりでございます。真の道乃心得を心得として頂いていこうとする願い、ね、そうゆう願いを起こしたとゆう事、そうゆう願いが自分の心の中に起きてきたとゆう事を無上の喜びとする信心。こうゆう言葉には、[大道をたいげして無上意を起こさん]とゆう事。大道、大きい道、ね、大きい道を体解する心と体をもって理解する。
 体解するとゆう事はたいは体解(げ)は御理解の解、大道を体解して無上意もうこの上もないむは無じょうは上、いは注意の意心無上意を起こさん。真の信心をさせて頂こう、本気で真の道を分からしてもらおう、それには真の人にならしてもらわなければでけん、その真の道を志す者は、こうゆう様な心掛けにならなければならない。その一言一箇条でも、あだやおろそかに出来ない御教が次々とございますけれども、ね。
 まずそうゆう心を起こしたとゆう事に、真の信心を解りたいと願わせて頂けたとゆうことに対してです、この上もない喜びを心に感じる様な信心そこから生まれて来る喜びが最高の幸せ。我が心を拝む、所謂自らなる心への帰依とゆうのは、誰はばかる事のない最高の道を歩きよる者としての、ね、プライドとでも申しましょうか、が頂ける。堂々としてお道の信心金光様の御信心をさして頂いておるとゆう事がです。
 所謂大道を闊歩出来る訳です。「おかげがありますよ、もう不思議なおかげ頂きますよ」とゆう様な間は、ね、堂々としてお道の信心を語る事も、又自分自身の心の上にも、それをいわゆる無上意とゆう事になってこない。例えば同じ趣味を持ちましても程度の低い趣味、程度の高い趣味、なんの稽古なさっておりますか、程度の低い物だったら人にもこんなもの稽古しよると言えない。
 けれども最高の趣味道楽と言った様なのを身に付けていくと、それを臆面もなくこうゆう稽古をしておると言う様な事が言える様に、信心でも「何々様を拝みよります」、「何様にお参りしよんなさるですか」「はいちょっとそこまで」と言った様な事にしかならん。自分自身の心の中にね最高の教え、最高の道そうゆう道を体得しようとしておるとゆう事にですね。自分信じて
 そうゆうひとつのプライドを持ってね、信心の稽古をさせて頂く所から、そうゆう信心を頂いておるとゆう事が有り難い、こうゆう最高の道を教えて頂いているとゆう事が、有り難いと無上の喜びを感じさせて貰う、そうゆう心をね拝ましてもらう。そこから開けてくる信心の喜び自らなる心への帰依、そこん所になからなきゃいけんどうでしようかね、それを例えば一口の言葉で申しますと[大道を体解して無上意を起こさん]。
 まずこの心を起こさないかん。本気で真の信心を頂こうとゆう、そんならそうゆう道を体解する理解するだけではない、体でも肌でも心ででもその信心を分かろうとする。そうゆう道にある者は、どうゆう心掛けにならなければならないかとゆう事を、御理解九十七節に、こうございます。第九十七節「神を拝む者は、拍手して神前に向こうてからは、仮令(たとえ)槍先で突かれても後ろへ振り向く事はならぬぞ。
 物音や物声を聞くやうでは神に一心は届かぬ」。神を拝む者ご神前に一度ぬかずかせて頂いたら、例え後ろから槍先で突かれるような事があっても、動いちゃならん後ろを振り向くような事があっちゃならん。もの音やもの声を聞くようでは神に一心はとどかん。今、昼のご祈念なんかの時には、それこそ一生懸命のご祈念しよる後ろから槍先で突かれてもおぼえんごたあです。
 人のもの声の音なんかきこえん自分の一生懸命にあげておる大祓の声でいっぱいですからねえ。そうゆう意味あいで大変結構だと思いますね、あの祈念力を作るとゆう事は。そこで、これをこの御神前に出て拝むとゆうという事だけではなくてね。ひとたび大道を体解しょうと無上意を起こした者、本気で真の信心を頂かして貰おうと、神様に心を向けた者の、いわばこれは心掛けなんです。
 神様を拝むとゆう時だけじゃない。このように大変な有り難い、しかも最高の道を歩こうとする者の、その道を教えて頂こうとするのでございますから、そこに歓喜、喜びにもう満ち溢れた心でその道を体得しようとする者、又それに限りない喜びを感じさせて頂く者。いうなら最高の信心を頂いておるんだとゆう、そのプライドにかけて、それを自分自身の物にしてゆくとゆうことの喜びと同時に、その稽古させて頂く。
 その例えば心得がですね、まあ色々と真の道の心得とゆう次々の御教になって来るんですけども、ここん所をですね、私は一遍本気で無上意を起こしておきませんと、その次ぎの教えの一つ一つ非常に難しいものになって来る。その気になればみ易い事でも、その気にならなければ難しいものになって来る。そうですね。昨夜、合楽会でしたが、ある方がこうゆうな発表をしておりました。
 「お参りさせて頂こうと思うておりましたらおなかが痛みだした。あの辺が有り難いですね、昨日の朝のご祈念には参ってきちゃった。所がまあいうなら久し振りに御神米が二体さがった。はあほんに今朝お参りした時に御神米がさがっとったとおもうて、その御神米を頂いてけどもお腹は痛むもんですから、信心友達の方に「今日は合楽会ばってん私はいけん」というてその会長さんの中村さんの所に電話をかけた。
 ところが中村さんが言われる、西田さんというおばあさん「そげなこつが西田さん腹でん痛みよるなら、なおでんお参りせなこて」と言われて、それもそうたいと思って、一心に神様におすがりさせて頂いて、そしてから御神米を頂いたというわけ、ほんに今朝御神米を頂いとったと思うて御神米を頂いたらもう本当に嘘のようにおかげ頂いて、只今どうもありません。」とゆうようなお話しでしたが。
 これは体験する事ですけれども、信心させて頂く様になってお参りしょうと思うとね、お参りのできないような事が起きて来る。合楽食堂の中村さんがこの事を言うておられますが、「初めの間は、さあお参りせんならんと思うとお客さんが来る。その分からない間は、またこらお参りがでけんていだけで済んだけれども、段々信心が分からして頂くようになったら、これは神様のお試しを受けておる様に分かって来た。それで私はちょっとお参りしかかておるから、ちょっと待って下さいと言う。」
 まあゆうならお参りして来る。これは皆さんも体験される事、ね。「お参りしよう思いましたら人が来ました。お参りしょうと思いましたらこういう事情がおこりましたから。」だから信心に言い訳はならんとゆうふうに、いつも教えられておるもんですから、「これはな神様の御都合に違いはない。」私はここん所にね、人の物音や物声を聞くようでは神に一心は届かんとゆう事になってくるのじゃないかと。ね。
 人が何と言おうが、どうゆう障害な物音が聞こえてきようが。それで例えば振り向く様な事があってはならん。はよお参りさせてもらおうとゆう一心とゆうか、真とゆうものは貫くもの。だから果して成程そうゆう場合、お試しとゆうことも言えるけれども、本当の事は神様がです、その氏子の真心を求めたまうのだとおっしゃる。こげな用件がありゃもう止め様とゆうぐらいの一心か、ね、
 どの様な障害があっても、いえちょっとそこん所はですね、例えばその大事なお客さんでありましても、ちょっとお待ち下さい、ちょっと神様へお参りして来ますからというて、打ち向かうて来る一心が、その一心を神様が求めたまうのです。そうゆう事になる。「もの音やもの声をきくようでは神に一心は届かぬ。」してみるとです。こうゆう事情が出来たから、お参りが出来ませんとゆう位な信心では。
 神に一心は届かぬとゆう事になるでしょう。丁度お参りしょうと思うたら腹がせきだしたから、もうご無礼しようとゆうぐらいの事では神に一心は届かん、「さあそこを、だからこそなおさら神様に打ち向かっていかじゃこて。」とゆう中村さんの言葉のように、そこに一心が、私はあると思うですねえ。「神を拝む者は、拍手して 神前に向かうてからは 仮え槍先で突かれても後へ振り向く事はならぬぞ。」
 神を拝む者はということは、今日の所では。真の道を分からしてもらおう、真の信心をさせて頂こう、本気で分からしてもらおうと、最高の道をですね、体得しょうと発願した発心した、ね。神様にいよいよ向こうてからは、例え槍先で突かれるような事があっても、ね。そうゆう素晴らしい道を分からして頂くのであるから、そうゆう有り難い信心を分からして頂くのであるから。
 例え後ろから槍先で突かれる様な身に危険を感ずる様な場合であっても、ね、それによって自分が迷うたり、後ろを振り向く様であったり、たじたじと後ろにひざる様な事であってはならんぞとゆうふうに、非常にここには厳しく教えられておられる。この九十七節は。けれどもですね。本気でその大道を体解して無上意を起こしたら、私はそれが、まあいうならば楽しゅう平気で出る来と思うですね。
 唯おかげが目的というぐらいでだったらですね、そうゆうような、わたくしはゆうなら、こりを積ましちゃならんから、まあお客さんが見えたならば、お客さんのきてお神様の方を後からお参りしても、それで結構お蔭がうけられると。けれどもね神に一心とこう向けた心がです、しかも大道を体解しよう、天地につながる所の大道を本当に闊歩しょうとする者。そうゆう素晴らしい此のうえもない心をおこした者はです。
 無上意を起こした者は、此のような心掛けにならなければならないと、ここには厳しゅう教えられてありますけれども。実を言うたら厳しいものではない、楽しいもの。それが出来るとゆうことに、有り難い意味あいに於いての、プライドがいよいよ出来て来る。金光様の御信心というものは、「はあ金光さんの。」と人からね言われるようなことのない、もう堂々として。
 金光教の信心の素晴らしさとゆうものを、自分が自負しておかなければ、「はい、ちょいとそこまで。」と、ゆうような事にしかならん。金光様の御信心頂いていますとゆうことすら人に言えない事ではね、私は本当の事が分かると思われない。もう、三、四年前だったでしょうか、これはあの、伊万里の竹内先生が、確かに市長選の時に、もう市長さんがやめられる。
 だから皆が竹内先生を、是非立候補してくれという事が、私にお伺いにみえた時であったか、なんかどうじゃったか、その事についてお伺いになった。そしたら、まあそうゆような事はいらんとゆうことであった。まあだ現在の助役で、まあ修行させて頂けといった様なことであった。もちっと信心の方をしっかり頂けとゆうような御理解があった。そん時に色紙を持って来ておられたました。
 「これに何か一筆書いて頂きたい」。それで私はそれに[道]とゆう字を頂いた。道と、大道の道、そしてその「道」とゆう字を大きく書いて、下に御理解が書いてあった。それを私はちよっと忘れましたけども、こうゆう様な御理解であった。わたしもちょっと思い出したことを書いてみると「道」とゆう、【道】という字はね、首の首とゆう字を書いて、しんにゅうでこう流した感じですね、首ですね。
 この首、「首」とゆう字を書いてしんにゅう、これが「道」。大同を体解して無上意をおこしたものは、例え自分のですね、栄転とか、出世とか、まあ助役さんから市長さんにとゆう事であれば、これは大変な誰でも願っておることなんだけれども、たとえよし、首の座を追われてもです、例えこの首の座が流れてもです。道の方を立ててゆけとゆう御理解がその下に書いてあったと思います。
 ですからここん所はです、首の座ぐらいの事ではない、どうゆう例えば難しい問題であっても、それがどのような素晴らしい物質ものでありましても金でありましても、その位のもんどん流すぐらいなことは問題じゃない、とゆう位いの度胸が、ゆうならば首の座についても、やはり道の方を尊ばして頂くといった様な、そうゆう信心、そうゆう精神が信心には必要である。
 それもおかげを願ってとゆうのでなくて、本当に天地の大道を体解して、そこに無上意を起こした者は、その位なわたくしは迫力のある信心の道の求め方とゆうものが、道を求めてゆく者の姿勢態度というものが必要である。それをたとえばみ易う申しますと、夕べ合楽会の方達が発表しておりました様な事にもなるわけ。お参りしようと思うよったばってん事情があった、だから昨日ごぶれいしました。
 あぁそうじゃったかそれで済むおかげは受けられる。けどもその位な事でもう振り向いておる。その位の事で自分の方向にしとる。とゆうような事ではね、大道を体解して行くということは出来ない。しかしこのくらいのひとつの、ね、信心の節度とゆうかね、節を守ると言う事を申しますね。その位な私は毅然としたものがね、お互い信心の稽古をさせて頂くならばどうでも必要であると思います。
 そうゆう意味あいでです、そうゆう精神を鍛はして頂く為に、今一時のあのご祈念は非常に有り難い。いわゆる、その頭からいきよる、本当にこうゆう時こそが、私はね、後ろから槍先で突かれるような事が起こっても、後ろを振り向くような事はないだろう。こうゆう時こそは、もう全然たとえどうゆう雑音が聞こえよっても、只聞こえるものは大祓の声、それに唱和してゆく自分の声だけしか聞こえない。
 只有り難いものだけしかない。物音や者声を聞くようでは神に一心は届かぬ。自分の一心が神様にいよいよ交流しておる時、「はあこうゆう時なんだなあ」そうゆう様な状態が静かな静かな中にあっても。私今四時のご祈念を、私一人でさせて貰います。勿論、先生方修行生の方達は一緒にさせて頂きます。けど、あの長い長いご祈念とゆうのはね、普通ではでけんのですよ。
 もうあれはね、もう本当に普通ではできん、普通では眠気が来たり退屈をする。本当に神様と交流するということは、神様とのね、お話しあいでも出来るようにならなきゃ出来ることじゃない。だからじいっと、神様いわば拝んでおるとゆう事が、もうここにはどうゆう些細なものでも、この中に入って入れようとしない。もうこうゆう中にはですね、それこそ蚊がさそうが蚤が食おうがである。
 ですからねそんなら今一時のご祈念の様に、一生懸命のご祈念をしとる時のそうゆう稽古をですね、私が朝晩私が一人でご祈念をいたします、ああゆう境地を段々作ってゆく事の為に、あの稽古はしておるとゆう事が言えます。又はこれは日常生活の上にどうゆう「ままよ」をおこさなければならん様な事が、人から言われてもそれが聞こえんですむお蔭、どうゆう例えばお試しを受けてもそこをやり抜けれる信心同じです。
 ご祈念の座がねこうして拝ませて頂いておる、何を祈り何を願っておるやら分からない。唯神様の心と私のこころとが交流しておる。ね、ゆうならばそれこそ密なる話し合いが出来ておる。お話し合いが出来ておるだからこそ後ろから槍先でつかれったちゃこたえない、物音なんかだから聞こえんのである。これはまあ私がいかにも出来ておるごとありますけれども、私も初めからそれが出来ておった訳ではない。
 それが出来る様になるとゆうならばわざわざ声をあげて大祓をあげる事もいらん。一生懸命汗みずくになる事もいらん。例えば一遍一遍に御信者さんがお参りして来てどうゆう難儀な問題を持って来ても、ご神前の座に出てご祈念することもいらん。唯おる所でお取次させて頂けるというのもそうゆう気持ちが段々開けて来たからなんです。拝まにゃどうもとゆうのじゃなくてだから結局そうゆう私は心を開かして貰うというかね。
 体解してゆくとゆう事に無上意を起こさんとゆう所がですね必要になってくるんじゃないかと。真の道を愈々体得させて頂こうとする者はこの97節の御理解を頂かなければなりません。こうゆう心でならなければいけません「神を拝む者は拍手して神前に向こうてからは、例え槍先で突かれても後ろへ振り向くことはならぬぞ。物音や物声を聞くようでは神へ一心は届かぬ」と、教えておられます。そうゆう厳しい。例えば一つのトレーニングとでも申しましょうか、ね。が出来たその先に今申しますように。
 ご神前に向こうておろうが家庭の中にあろうが、どこにおろうがもの音を聞かんですむ、人の声なんか聞こえんゆうならば一心神様に向かうて、迷う事も恥じらう事もない様な信心がでけ。愈々大道を闊歩してゆけれる、ね、無上の喜びに触れていく事が出来るのでございます。そうゆう信心をです頂かして頂こうとゆう心が無上意であります。最高度の心であります最高度の信心を最高の心を持って、ね、それを頂こうとする無上意を起こさんとゆう事に、なるのじゃないでしょうかね。
   どうぞ。